今までの展覧会
「オープンキッチン」は、たんぽぽの家と、京都市立芸術大学の協同の試みとして始まった。初年度を終えようとするいま、振り返ると、なんだか楽しいことばかりだった気がする。当初はもうちょっと困難を予想していた。たんぽぽの家のメンバーも芸大の学生も、どちらもアクが強いから、ひとたび交わるといろいろ行き違いが生じて、もしかするとケンカ別れもあるだろうと考えていた。けれども、そうはならなかった。コミュニケーションを長持ちさせる秘訣がその楽しさにあるとすれば、ひとまずこの交流はうまくいっているのかもしれない。
しかし、何がそんなに楽しかったのだろう。
そういえば、たんぽぽの家のメンバーと交流を重ねる学生たちが、相手の実人生やその物語をほとんど気にかけないことが、面白かった。それが「オープンキッチン」に、なんというか、タフネスを与えていたように思える。たとえば、ある学生が「作品ラリー」のペアに送った作品は、びりびりに破られ小箱に詰められて帰ってきた。すると彼女は、さっそくその破片を手にとって、さまざまに並べかえながら次の返答を考え始める。解釈の前に、まずは手が動いている。彼女はけっして相手に関心がないわけではなくて、いつか、自分の表現を「半透明な氷の向こう側に宛てる」と言っていた。そしてその相手は、彼女の作品を破るときにとても嬉しそうにしていたと、たんぽぽの家のスタッフが教えてくれた。二人はお互いのことを、手で探りあてようとしているのだろうか。
エピソードはまだまだある。
ある学生は、制作に集中するあまり身体の感覚が薄れて、「まるで幽霊になったような気がする」と言った。彼女と「作品ラリー」のペアを組んだのは、身体の障害にともなって制作のスタイルを変化させてきたアーティストだった。たんぽぽの家から送られてくる絵画作品の下塗りと、断片的なメモを手がかりに製作が進められた。そこでどんな理解が、あるいは違和があったのか、よくわからない。けれども線が引かれ色が重ねられてゆく作品を見ると、画面には二人の作家がすれ違いざまに目配せをするような、軽やかさの印象もある。そこでふと思い出されるのは、たとえば二人が一緒にいるときの、あっけらかんとした楽観の雰囲気なのだった。
いまのところは持続している、この素朴な楽しさは、これから変わってゆくかもしれない。前言をひるがえすようだけれど、ケンカ別れも、本当は悪くないのかもしれない。その変化が、新たな意味が生まれてくるきっかけとして、「オープンキッチン」があればいい。たんぽぽの家の伊藤樹里さんが学生に宛てた手紙が、そんな楽観を支えてくれる。「山口真琴さんと輪つなぎを作ったことがひとつ新しくなって、光が新しくなっています。新しい光が赤や緑の色がたくさん輪つなぎでできて、光が新しくなって赤や緑もいろいろつないでいます」。